議会の沿革

制度

 わが国の府県会は、明治11年7月の府県会規則の施行により制度化された。本県では、同年10月県下19の郡区において実施された県会議員総選挙で56人の議員が選ばれ、翌12年3月第1回福岡県会が福岡市で開かれた。

 この選挙での被選挙権は、25歳以上の男子、3年以上の県内居住者で地租5円以上を納める者。選挙権は、20歳以上の男子で郡区内に本籍を有し、地租5円以上を納める者。また議員の任期は4年であるが、2年目ごとに半数を改選することになっていた。制限選挙ではあるが県民の代表が地方政治に初めて参加することになった。

 当時の行政組織は、大小区画であったが、明治11年7月の郡区町村編制法の発布により、従来地理的名称だった郡が行政区画となり、郡の下に町村を置くことになった。本県は福岡区のほか31郡の郡区制をとり、郡区長を任命してそれぞれ郡区役所を置いた。

 その後、郡区の改編、町村の廃置分合等が行われ、議員定数に増減がみられた。県会の組織は明治14年の通常会から常置委員会が設置され、常時県令の諮問に応じ、議会審議を代行する権限を与えられた。この制度は、明治29年県参事会にかわるまで続いた。

 明治32年、従来の府県制が全面的に改正され、議員の半数改選を廃止し、議会の権限は拡充され、漸次議決機関として整備が進められた。

 大正11年4月には、国税納付額の制限を撤廃し、選挙権が拡大され、さらに大正15年6月、普通選挙実施のための選挙権、被選挙権の制限撤廃が行われた。自治制施行以来数十年の経験から地方自治の理想に漸次近づいた。そして昭和2年9月、最初の普通選挙法による県会議員選挙が実施され、54人の議員が選ばれた。

 昭和4年、県令に「条例及び規則の制定権」を、議員には「発案権」が与えられ、自治制度は前進した。

 その後、国内は世界恐慌の影響で経済は混乱し、戦争の道へ突入していった。昭和15年10月、大政翼賛会が創設され、新体制の名の下にすべての国民は何らかの組織に組み入れられた。県会の政党は解消し、議会は戦時色を強めていった。

 終戦後、昭和22年4月、地方自治法が公布され、ここに地方自治の本旨に基づいて、地方公共団体は健全な発展を保障された。住民自治に立脚した地方議会は、議決権が大幅に拡充されるとともに、機関委任事務に対する説明請求権、意見陳述権、監査請求権及び当該地方公共団体の事務に関する調査権が与えられた。

 戦後最初の県議会議員選挙は昭和22年4月に行われ73人の議員を選出した。以後4年ごとに改選が行われており、議員定数は令和5年選挙では87人になっている。

議事堂

 明治4年の廃藩置県に際し、さらに福岡藩知事として在職中の有栖川宮熾仁親王が初代福岡県知事に任命されたが、当時の県庁は福岡城内にあった。

 明治9年、小倉県と三潴県とが合併されて大福岡県になり、県庁も城内から天神町に移った。明治12年3月第1回県会は、別棟に設けられた県会議所で開かれた。ここが狭あいであったため、明治14年県庁内に議長・書記の事務所及び傍聴席を備えた県会議所が新築された。

 明治21年、県庁は同じ地所にあった福岡始審裁判所の移転に伴い、その跡を譲り受け、ここに移ったが、建築年度も古く、かつ地方制度の充実により職員も増加したため狭あいになり、明治43年、4年計画で庁舎新築が決定された。しかし、その後、度量衡検査所、衛生試験所、蚕業取締所、土木管区事務所の拡張等により遅延し、大正2年にようやく妻木工学博士の指導の下に設計を変更し着工した。

 大正4年2月、近代ルネサンス様式の本館がしゅん工し、本館内に議事堂が設けられた。以来、地方自治の発展に伴い行政機構が拡大するなかで、庁舎は次々に増築されたが、県民サービスの低下が憂慮されるようになり、昭和37年庁舎建設の機運は高まった。しかし、諸事情により実現しなかった。これを機に県議会においてもこの問題が活発に論議され、昭和50年、県議会の各派代表者で構成する「県庁舎位置検討小委員会」が設置された。

 その後、昭和52年3月「県庁舎建設促進に関する決議」がなされ、同年7月「県庁舎の位置を変更する条例」を議決し、福岡市博多区東公園への移転が確定した。建設にあたっては、九州の中心として、また、将来ますます拡大し多様化する行政需要に十分対応できる機構・機能を考慮し、県政100年の展望にたって検討がなされ、昭和53年11月着工、昭和56年11月延床面積162,842平方メートル、敷地面積79,370平方メートルの規模で新県庁舎は完成した。議会棟は庁舎の西側に位置し、六角形の議場棟と議会事務棟からなっている。


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